こんにちは。聖書研究サークルの西村です。
普段、配っているチラシの新しい原稿ができましたので、皆様に読んでいただければと思い、
メッセージをあげました。
感想、質問等、ありましたらコメントしてくださると嬉しいです。
彫像に拠り頼み、鋳像に向かって『あなたがたこそ私たちの神々』と言う者は、退けられ恥を見る。
聖書(イザヤ書42章17節)
私たちの周りには神と呼ばれるものがたくさんあり、それらは多くの人によって拝まれています。例えば、大仏、阿弥陀如来の像、釈迦の像、あるいは狐や牛、蛇の像などさまざまです。
ところで、皆様はそれら神と呼ばれているものの正体についてお考えになったことはあるでしょうか?多くの場合、日本人にとって、それらは昔から何の疑問もなく神として受け入れられており、その像を拝むことは美徳であると考えられてきました。そして、それは現在もそうであり、皆様もそれらを神として拝んでこられたと思います。
しかし、聖書には、それらを拝む者について「退けられ恥を見る」と記されています。なぜかと言いますと、それらの正体は神ではなく、ただの木や石であり、それらは人間を助けることも救い出すことも何もできないからです。
まず、第一にそれらは人の手の業です。もし、それらが本当に神であるならば、わざわざ人の手を借りて自分の像を作ってもらう必要などないはずです。しかし、実際のところ、それらは人の手によって作ってもらわなければ存在できません。そんなものが神であるはずがありません。
第二に、それらは何もできません。神と呼ばれるものには、目や鼻や口、手はありますが、それらは見ること、息をすること、聞くこと、動かすことができません。耳があっても聞くことさえできないものにお願いしてもそれは無駄なことです。火事になったら人が運び出してやらなければならないものが、どうして神と言えるのでしょうか。
第三にそれらは風化していきます。もし、それが神であるならばメンテナンスなどいらないはずです。しかし、実際のところ自分でメンテナンスもできなければ、ホコリを取ることさえできません。放っておくならば、風化して倒れてしまうのです。
ですので、それらを神として拝むことはおろかしいことです。皆様は、木の机や椅子にむかって神として拝むでしょうか?それらは物に過ぎず、そんなことをされる方は一人もおられないと思います。ところが、誰か職人が、その木の椅子を削り直して釈迦の像に仕立て上げ安置したとします。 では、その像は神になるでしょうか?そんなはずがありません。椅子が形を変えたに過ぎず、いわば椅子を拝んでいることと変わらないのです。
では、神はおられるのでしょうか?
唯一まことの神がおられます。このお方は、この天地万物をお造りになり、今も維持しておられます。またこのお方は生きておられ、知性、意思、感情を持っておられます。また歳を取ることもなく、時間を超えて存在され、偏在の神であられます。
神は聖書を通して「わたしは万物を造った主である。わたしはひとりで天を延べ広げ、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。」と語っておられます。
今、その神が皆様に願っておられることは、ご自身に立ち返ることです。神はご自身のところにだけに、人にとっての真の満足、幸せがあることを知っておられます。初めの人アダムとエバは神と共に生きる幸いを心から喜んでいたのです。それは小さい赤ちゃんが、お母さんさえいれば満足できるように、人間にとっても神と共に生きることこそまことの幸せなのです。しかし、人は神から離れて行き、偶像を拝むものとなりました。また心の虚しさを覚えるようになり、その虚しさは決して埋まることはありません。それは、神を神と認めず、神を無視し、神から遠く離れた結果であるのです。神は、その生き方を罪だと宣言されています。そして、その罪の結果は、死後の永遠の地獄での裁きです。
では、どうすれば良いのでしょうか?まず、神から離れて生きていたことを神の前に罪と認めることです。そして、神が用意してくださった救いを受け取ることです。
神は驚くべきことに、今から約2000年前に神の御子イエス・キリストをこの地上に人として遣わしてくださり、そのご生涯の最後に十字架にはりつけにしてくださいました。それは私たちの身代わりに罪の刑罰を受けさせるためです。本来、私たちが地獄で罪の刑罰を受けなければなりませんでしたが、神は人を愛し、救うために、ご自分の御子を十字架にはりつけにし、罪の刑罰を下して、救いの道を用意してくださったのです。そしてキリストは、死後3日目に墓の中より甦られました。
誰でも、このイエス・キリストを私の救い主と信じ受け入れるならば、その人は罪が赦されて天国に行けるばかりか、神様の子供とされて、神との幸いな交わりの内に戻してくださるのです。これこそ、人にとっての真の幸いです。
ぜひ、偶像から真の神に立ち返り、イエス様をお信じになって下さい。